2020年中米貿易協定の知財関連規定による医薬分野への影響について
北京林達劉知識産権代理事務所
中国弁理士
劉 文瀚
2020年1月15日、中米両政府は「中華人民共和国政府とアメリカ政府との経済貿易協定」(以下、「協定」という。)に署名した。同協定には、医薬品等に係る知的財産権について一連の定めがある。また、中国特許法、特許法実施細則、特許審査基準等は現在改訂中である。本稿において、上記協定が中国医薬分野の知的財産権に与え得る影響について考察する。
上記協定は主に下記3つの観点から、医薬品等に係る知的財産権について約定している。
(1)追試データの採用。
(2)特許紛争の早期解決制度。
(3)特許権の存続期間の延長。
上記3点について、中国の法律等では、追試データに関しては中国の特許審査基準に規定はあるが、上記(2)、(3)に関してはまだ立法の検討中である。
上記3点に関する協定の規定及びその影響について、以下のとおり検討する。
(1)追試データ(post-filing data)の採用について
協定の約定によれば、中米両政府は、医薬品等の特許出願人が特許の審査、審判及び訴訟において、追試データを提出することにより、実施可能要件や進歩性などの特許登録要件を満足させることができることに合意した。
上述した規定は、バイオ医薬分野の特許出願の審査に関してCNIPAとUSPTOとで明らかに異なる運用の一つである。USPTOは追試データについてCNIPAより緩い運用を取っているため、実務において、米国から中国に移行したPCT出願が実験データの不足で権利化できないことは少なくない。
中国においても、追試データに関する審査基準の規定及び実際の運用は一定不変というわけではない。例えば、1993年の審査基準では、出願後に提出された実施例が審査官の特許性審査時の参考にしかならないとの規定であった。一方、2010年の審査基準では、出願後に提出された実施例及び実験データは考慮しないとの規定となった。
中国医薬分野の迅速な発展に伴い、製薬業界では、出願前にすべての実験データを完成させて提出することは現実的でないという声が多くなった。そのため、CNIPAは2017年に審査基準を改訂し、出願後に追加で提出された実験データについて、「審査官は審査しなければならない」と変更した。つまり、現行審査基準によれば、追試データが提出された場合、審査官は無視することができず、これを審査する義務がある。
しかし、「審査官は審査しなければならない」ということは、「審査官は出願人の追試データを必ず認める」という意味ではない。改訂後の審査基準にも、追試データにより証明される効果は、当業者が特許出願の開示事項から読み取れるものでなければならないという制限がある。つまり、審査官が追試データの中身を問わずにこれを認めるというわけではない。実務からすれば、中国の審査官は追試データを認めるかについては依然として、比較的厳しい運用を取っている。
また、中国裁判所の判決からすれば、多くの裁判所は追試データの採用について厳しい判断基準を持っている。例えば、中国最高裁は、「出願後に追加で提出された実験データについて、・・・、このような実験データが本願の先行技術の内容でもない場合、・・・、このような実験データを根拠に、発明がその効果を達成できると判断すると、特許の先願主義に反することとなり、公開の代償として権利を付与するという特許制度の目的に背くこととなる」と判示した((2012)知行字第41号)。最高裁によるこの判断基準について、現時点ではこれを更新する新たな基準を示す判決はない。
ところが、近年の判決からすれば、追試データに関する裁判所の運用は若干緩和する傾向にある。例えば、北京高裁は2017年末に発行した(2017)京行終1806号判決において、出願人の追試データを認めるかについて以下の観点から判断した。
追試データの公開日が無効審判の請求日より前であり、反証がなければ、その信ぴょう性を認めることができる。
追試データの実験方法が先行技術と同様であるため、追試データの実験方法は本件特許の出願前の実験方法である。また、追試データには詳細な実験手順の記載もある。
追試データに記載の効果は、本件特許の明細書に明確に記載されている効果である。追試データは、本件特許のクレームに係る製品と、先行技術に開示された製品との平行比較であるため、追試データは特定の引用文献について提出された実験データである。
追試データは本件特許の出願後に完成した実験データであるが、本件特許の技術上の貢献を客観的に反映できる。この実験データを認めることは、特許権者に不当な利益を与えることにならない。
今回の協定には、追試データの採用に関する詳細な基準の記載はない。一方、中国における現在の運用実態からすれば、追試データの提出により特許登録要件(例えば実施可能要件や進歩性)を満足させることはある程度可能であるといえる。そのため、この約定に関する今後の実行がどの程度のものになるか、例えば、追試データがどの程度まで認められるかについては、まだ予測できない。
したがって、中米貿易協定にはこのような約定があるにもかかわらず、CNIPAに特許出願するにあたり、下記の事項に留意すべきであると思われる。
特許出願時にできるだけ多くの実験データを明細書に書いておくこと。
どうしても十分な実験データを提示できない場合、詳細な調製方法、実験効果の測定方法及び/又は半定量的データを明細書に書いておくこと。
優先権を活用すること(ただし、新たな実施例により新たな効果を示す場合、優先権が認められない可能性もある)。
可能な限り、未来形ではなく一般現在形を用いて表現するか、または翻訳の際に未来形の意味を表す表現を避けること。
実験結果の説明において、実験結果が推測によるものであることを暗示する表現は使わないこと。
(2)特許紛争の早期解決制度について
上記制度に関する協定の記載からすれば、このような制度は米国においてパテントリンケージ制度(patent linkage system)と呼ばれている。しかし、中国現在の審査及び司法の実務からすれば、このような制度はまだ確立していない。
一方、中国NMPAが2017年5月に発表した「医薬品・医療機器のイノベーション奨励及びイノベーターの権益保護に関する政策(意見募集案)」には、医薬品のパテントリンケージ制度の設立に関する記載があるとともに、上記パテントリンケージ制度の施行規則に関して、例えば、医薬品登録の申請者が登録申請に際して、知っている又は知り得る関連権利についての宣言を提出しなければならないとの記載もある。しかし、2020年3月に発表された改訂「医薬品登録管理方法」には、医薬品登録の申請者の上記義務に関する記載がないどころか、特許についての言及も一切なかった。
一方、2019年11月に中共中央弁公庁及び国務院弁公庁は「知的財産権保護の強化に関する意見」を発表し、「医薬品パテントリンケージ制度、医薬品特許期間補償制度の設立を模索する」と提案した。また、2020年3月に発表された2020年の司法解釈作成計画によれば、中国最高裁は2020年末までに、「医薬品パテントリンケージ紛争事件の審理における法律適用の若干の問題に関する規定」という司法解釈を完成させたいと希望している。さらに、CNIPAは 2020年4月に「『知的財産権保護の強化に関する意見』の徹底実施に関する推進計画」を公開し、2020年10月末までに医薬品特許紛争の早期解決制度を確立させる予定であると発表した。
そして、2020年7月3日に発表された中国特許法改正案(審議用Ⅱ)には、医薬品特許紛争の早期解決制度に関する記載がある。改正案では、具体的な運用形態が十分に規定されておらず(例えば、承認待ち期間が明確ではなく)、「国務院の薬事管理部門及び国務院の特許行政部門は共同で、医薬品販売承認審査及び医薬品販売承認申請段階での特許紛争解決に関する具体的な措置を策定する」との記載もあることから、上述した医薬品特許紛争の早期解決制度のルールはまだ策定中であると分かる。
(3)特許の存続期間の延長について
協定の約定によれば、中米両政府は、特許の存続期間の延長制度を定めることによって、特許の権利化又は医薬品の承認審査における不合理な遅延を補償することに合意した。
現行の中国特許法では、特許の存続期間の延長、特に医薬品に関する特許の存続期間の延長に関する規定はまだ一切ない。
しかし、全国人民大会常務委員会の立法計画からすると、2018年から毎年の立法計画はいずれも特許法の改正についての言及がある。また、中国市場監督管理総局が2020年3月に公開した立法計画にも、「中華人民共和国特許法実施細則」の起草及び審議が記載されている。
さらに、2019年1月に発表されたパブリックコメント募集用の中国特許法改正案には、「革新的医薬品の販売承認申請審査に要する期間を補うために、中国の国内と外国で販売申請を同時に行った革新的医薬品に係る発明特許に対し、国務院は特許権の期間を延長すると決定することができるが、期間の延長は5年を超えないものとし、革新的医薬品発売後の特許権の合計存続期間は14年を超えないものとする」と記載されている。また、中国特許保護協会が2019年9月に行った「医薬品特許制度の改正に関するアンケート調査」では、医薬品特許の存続期間の延長制度に関する設問もあった。
なお、中国特許法改正案(審議用Ⅱ)では、上述した特許期間延長制度の前提条件は、「中国の国内と外国で販売申請を同時に行った革新的医薬品に係る発明特許」から、「中国において発売承認を受けた新薬発明特許」へと変更された。つまり、特許期間延長の適用範囲についても現在議論中である。
また、「特許期間補償制度」についても、中国特許法改正案(審議用Ⅱ)には、「発明特許出願日から4年経過し、かつ実体審査請求日から3年経過した後に発明特許権が付与された場合、特許権者は、補償を請求することができるが、出願人による不合理な遅延は除く。」との記載がある。
上述した立法の進捗からすれば、今度の改正特許法において、医薬品等に係る特許権の存続期間の延長及び特許期間の補償に関して規定される見込みである。
上記の制度が確立すれば、製薬業界のイノベーション型の企業にとっては有利になる。一方、先発医薬品メーカーと後発医薬品メーカーとの利益のバランスも考慮しなければならない。例えば、上記(2)、(3)については、意見が分かれており、さらにそのバランスを図る必要がある。
新型コロナウイルスが現在世界中に拡がったことから、医薬分野の重要性もより深く認識されている。中国においては、特許法及びその実施細則の改正を始めとする医薬関連法律法規の策定や改正、パテントリンケージ制度に関する司法解釈の検討等は現在進行中であるため、協定実施の細かいところについては不確実性があり、今後引き続き注目していきたい。
(2020)