1.はじめに
第4W101965号審決は、中国特許法第33条違反(新規事項の追加)を理由に、発明の名称が「微量の酸素を含有するR-Fe-B系焼結磁石及びその製造方法」である第ZL02158707号中国特許(以下、「本件特許」という)を全部無効とした
[1]。具体的には、合議体は、「100<O<1200ppm」から「100 ppm <O<900ppm」への補正が新規事項の追加に該当すると判断したのである。
では、なぜ、技術的範囲を拡大せずに数値範囲を減縮する上述の補正が、新規事項の追加であると判断されたのか。本稿は本件事案を例に、中国特許法における数値範囲の補正に関する規定について検討する。
2.事案の経緯
(1)実体審査の段階
実体審査において、審査官は引用文献CN2257992Aに基づき、請求項の進歩性を否定する拒絶理由を通知した。上記引用文献には、元素Oの含有量が960ppm、希土類元素Nd、Pr、Dyの合計含有量が29.86wt%である異方性焼結磁石が開示されている。この引用文献を除外するために、出願人は請求項1の「100<O<1200ppm」
[2]という記載を「100 ppm <O<900ppm」に補正し(補正1-A)、「20 wt%<(Nd、Pr、Dy/Tb)<30wt%」という記載を「26wt%< (Nd、Pr、Dy/Tb)<30wt%」に補正した(補正1-B)
[3]。審査官は補正後の請求項を認め、本願を特許査定した。
本件特許の登録時の請求項1は下記のとおりである。
【請求項1】異方性焼結R-(Fe,TM)-B-X磁石において、
Rは、希土類元素Nd、Pr、Tb、Dyのうちの少なくとも1種で、合計含有量が26wt%<(Nd、Pr、Dy/Tb)<30wt%であり、
TM=Ti、V、Cr、Mn、Co、Ni、Ga、Ca、Cu、Zn、Si、Al、Mg,Zr、Nb,Hf、Ta、W、Moのうちの少なくとも1種、
X=O、C、N、100ppm<O<900ppm、N<3000ppm、C<1000ppmであることを特徴とする永久磁石。
(2)無効審判請求の段階
合議体は審決において下記2点を指摘した。
1)元素Oの含有量について、当初の明細書には100ppm<O<400ppm、400ppm<O<800ppm、800ppm<O<1200ppmなどの具体的な範囲が記載されている(本件特許の公開公報の明細書第2頁第15行目参照)。これらの範囲は、当初の請求項1に記載の「100<O<1200ppm」という数値範囲に含まれる400ppm、800ppmなどの数値を含んでいる。この状況に鑑み、出願人は、「除くクレーム」方式の補正を直接適用できるのではなく、特許法第33条に適合する通常の補正方法により補正することをまず考慮すべきである。
本件特許の実体審査において審査官が引いた引用文献に開示された酸素の含有量は960ppmである。本件特許の当初の明細書に記載された400ppm、800ppmはいずれも、当初の請求項1に記載の「100<O<1200ppm」に含まれる数値として、請求項1の範囲から上記960ppmを除外するための補正の根拠に利用できる。
当初の明細書及びクレームには、Oの含有量が900ppmであるという数値の記載はなく、当初の記載からこの数値を直接かつ一義的に特定することもできない。したがって、請求項1の上記補正1-Aは新規事項の追加に該当し、特許法第33条に違反している。
2)本件特許の実体審査において審査官が引いた引用文献には、希土類元素の合計含有量が29.86wt%であることが開示されている。本件特許の登録請求項1におけるNd、Pr、Tb、Dyの合計含有量は26wt%~30wt%であり、引用文献に開示された上記数値を除外していないため、この補正が「除くクレーム」方式の補正として特許法第33条による制限を避けることができないことは明らかである。
本件特許の当初の出願書類には、Nd、Pr、Tb、Dyの合計含有量が26wt%であるという数値の記載はなく、当初の記載からこの数値を直接かつ一義的に特定することもできない。したがって、請求項1の上記補正1-Bは新規事項の追加に該当し、特許法第33条に違反している。
以上の理由により、合議体は本件特許を全部無効とする旨の審決をした。
3.関連法規
本件特許の出願日が2002年12月26日であるため、2001年版の審査基準が適用される。合議体の上述の審決において、中国特許法第33条に適合する数値範囲の補正の特例である「除くクレーム」方式の補正について言及されている。2001年版の審査基準第2部第8章5.2.2.1には以下の規定がある。
①「数値範囲の構成要件を含む請求項における数値範囲の補正は、補正後の数値範囲の両限界値が当初の明細書及び/または特許請求の範囲に確実に開示されたことを前提として認められる。」
②「当初の明細書及び/または特許請求の範囲には、かかる構成要件の当初の数値範囲に含まれるその他の数値が開示されておらず、引用文献の開示内容に鑑みて、または、当初の数値範囲には発明が実施不可能になる部分が含まれることに鑑みて、かかる部分を除外すれば、この特許出願が新規性及び進歩性を有することを前提として、『除くクレーム』方式により、広い数値範囲を含む請求項から当該部分を除外することによって、請求項が全体として、当該部分を明確に除外した確実な技術的範囲を含むようにする補正は認められる。」
2010年版の審査基準は、第2部第8章5.2.2.1には上記①と同様な規定があり、上記②について、第2部第8章5.2.3.3の「認められない削除」には同じような規定がある(下記参照)。
「当初の明細書及び/または特許請求の範囲には、かかる構成要件の当初の数値範囲に含まれるその他の数値が開示されておらず、引用文献の開示内容が発明の新規性や進歩性に影響を与えることに鑑みて、または、当初の数値範囲には発明が実施不可能になる部分が含まれることに鑑みて、出願人が『除くクレーム』方式の補正により、上記当初の数値範囲から当該部分を除外し、かかる発明の数値範囲が全体として当該部分を明確に含まないようにする場合、このような補正は当初の明細書及び特許請求の範囲に記載された事項の範囲を超えているため、出願人が、かかる構成要件を『除くクレーム』補正で除外する数値とする場合に本願発明が実施不可能になること、または、かかる構成要件を『除くクレーム』補正後の数値とする場合に本願発明が新規性及び進歩性を有することを出願の当初の記載により証明できる場合を除き、このような補正は認められない。」
上述の規定をどのように理解すべきかについては、中国特許法第33条の立法の趣旨は、先願主義において、出願人が当初の出願書類に(明確又は実質的に)開示しなかった新たな技術的事項を補正により導入することによる国や社会公衆の不利益を防止することである。
上記①の規定について、公衆はそもそも出願日後に、出願に開示された数値範囲から、より優れた効果を有する具体的な範囲や数値を好適に選択することができるが(このような選択は新規なものと見なされる)、数値範囲の任意の補正が許されると、公衆が出願日後にこの出願を基礎としてさらに研究開発を行う可能性はなくなる。したがって、このような補正は、補正後の数値範囲の両限界値が当初の明細書及び/または特許請求の範囲に確実に開示されたことを前提として認められる。
上記②の規定について、これは請求項補正の特例であり、当初の出願書類には、かかる構成要件の当初の数値範囲に含まれるその他の数値が記載されておらず、上記①に適合する補正ができない場合に例外として許される補正手法であると思われる。この補正手法は厳しく制限されており、A. 引用文献の開示内容が発明の新規性や進歩性に影響を与える場合、B. 当初の数値範囲には発明が実施不可能になる部分が含まれる場合という2つの場合にのみ許される。上記Aの場合について、補正後の請求項が引用文献に対して新規性及び進歩性を有することが要求される。上記Bの場合について、除外した部分は本願発明が実施できない部分であることを証明する必要がある。
4.本件事案についての解析
本件事案において、引用文献に開示された酸素の含有量960ppmを避けるために、請求項における数値範囲を補正する必要があった。しかし、上記2001年版の審査基準からすれば、補正に際して、この数値範囲に含まれるその他の数値や範囲が明細書に記載されているか否かをまず確認する必要がある。
元素Oの含有量について、当初の明細書には100ppm<O<400ppm、400ppm<O<800ppm、800ppm<O<1200ppmなどの具体的な範囲が記載されている。よって、補正後の範囲の新たな限界値として、明細書に記載の400ppm、800ppmをまず考慮すべきである。明細書には、当初の数値範囲に含まれるその他の数値が全く記載されていない場合のみ、上記②の規定に基づき、数値範囲の一部を除くことにより960ppmを避けるとともに、補正後の数値範囲が960ppmに比して進歩性を有することを主張することが考えられる。
希土類元素の含有量について、引用文献には29.86wt%という数値が開示されている。審査基準の上記②の規定に基づいて補正すれば、この数値を避けるべきである。しかし、本件事案において、補正後の数値範囲は26wt%~30wt%であり、引用文献の29.86wt%を避けていない。つまり、この補正は、審査基準の「除くクレーム」補正に関する規定を適用できるものではない。よって、合議体は、この補正が「除くクレーム」方式の補正ではないと判断した。
「除くクレーム」方式の補正は実質上、上述のAとBの場合にのみ許される例外である(つまり、通常、このような補正は新規事項の追加となる)。したがって、希土類元素の含有量の補正に審査基準の「除くクレーム」補正に関する規定が適用できないと判断された以上、この補正は新規事項の追加に該当する。
本件事案について、さらに以下の検討を行う。
(1)数値範囲の減縮補正について
特許出願には最初から特定の範囲が記載されている場合、それは、この特定の範囲に含まれる任意の数値が当該出願に適用できることを意味しているため、狭い範囲へと減縮する補正が新規事項の追加ではない、とする見解がある。これは、例えば特許出願に20℃~80℃という温度範囲が記載されているとすると、20℃~80℃の範囲内であれば発明が実施できることを意味しているため、40℃~60℃の範囲においても実施でき、40℃~60℃への補正が新規事項の追加ではないとする見解である。
一方、「出願人は、その特許出願書類を補正することができる。ただし、発明及び実用新案の特許出願書類の補正は、当初の明細書及び特許請求の範囲に記載された事項の範囲を超えてはならない。」という特許法第33条の規定を厳しく理解する見解もある。これは、上述の例では40℃、60℃が当初の出願書類に記載されていなければ、40℃~60℃という範囲に係る発明が当初の出願書類に開示されておらず、当初の記載から直接かつ一義的に特定することもできないため、この補正は新規事項の追加に該当し、特許法第33条に規定する要件を満たしていないとする見解である。
審査基準の規定及び上述の事案の結果からすれば、中国の審査実務は後者の見解を採用しており、数値範囲の減縮補正に対して厳しい判断基準を適用していると言える。
(2)数値範囲の通常の補正と「除くクレーム」補正との関係
数値範囲の通常の補正とは、補正後の範囲の限界値が当初の出願書類に記載されている場合の補正、つまり、上述の審査基準の①に該当する補正をいう。
一方、上述の審査基準の②によると、当初の明細書及び/または特許請求の範囲には、かかる構成要件の当初の数値範囲に含まれるその他の数値が記載されていなければ、これが「除くクレーム」補正の前提となる。本件事案にもこの点が反映されている。
当初の明細書及び/または特許請求の範囲には、かかる構成要件の当初の数値範囲に含まれるその他の数値が記載されていて、この数値に基づく補正後の数値範囲も、引用文献により新規性や進歩性が否定される場合、「除くクレーム」補正により引用文献の開示内容を除外して補正後の請求項の進歩性を主張することが可能か、という質問が生じる(質問X)。審査基準には、この点に関する明確な規定はない。
上記質問Xについて、「当初の明細書及び/または特許請求の範囲には、かかる構成要件の当初の数値範囲に含まれるその他の数値が記載されていない」ことが、「除くクレーム」補正の必須の前提条件であるため、当初の出願書類にその他の数値が記載されていれば、その数値に基づく補正により引用文献を避けることができなくても、「除くクレーム」補正の必須の前提条件を満たさないから、「除くクレーム」補正が不可能であるとする見解(A)がある。
一方、審査基準における「当初の数値範囲」には、「当初の記載に基づく補正後の新たな数値範囲」も含まれ、「当初の数値範囲に含まれるその他の数値」とは、補正により引用文献の開示内容を除外できるものを指すと考えられるため、上記質問Xについて、「除くクレーム」補正が可能であるとする見解(B)もある。
本件事案において、合議体は審決に「元素Oの含有量について、当初の明細書には100ppm<O<400ppm、400ppm<O<800ppm、800ppm<O<1200ppmなどの具体的な範囲が記載されている(本件特許の公開公報の明細書第2頁第15行目参照)。これらの範囲は、当初の請求項1に記載の「100<O<1200ppm」という数値範囲に含まれる400ppm、800ppmなどの数値を含んでいる。この状況に鑑み、出願人は、「除くクレーム」方式の補正を
直接適用できるのではなく、特許法第33条に適合する通常の補正方法により補正することを
まず考慮すべきである。」と説示している。
上述の合議体の説示からすれば、本件特許の当初の明細書及び特許請求の範囲に記載されたいずれの数値で補正しても、引用文献の960 ppmを避けられない場合、「除くクレーム」補正を適用することができる。これは筆者の推測であるが、このような理解は、より合理的で、出願人にとって有利であると思う。したがって、筆者としては上述の見解Bに賛成する。
[4]
(3)本件事案から学ぶ出願書類作成時の留意事項
本件事案からして、明細書を作成する際に、数値範囲の両限界値の実施例のみならず、数値範囲の中の数値に係る実施例もできるだけ多く記載すべきである。このようにしておけば、後日の審査において、それらの数値により、新規事項の追加となることなく様々な補正を行うことが可能となる。一方、特許出願において数値範囲内の肝心な範囲や数値を開示したくない場合、作成時にこのような範囲や数値を隠すように工夫する必要がある。
明細書に数値範囲の中の数値を全く記載しなければ、この出願の新規性や進歩性を否定し得る先行文献が引用された場合、「除くクレーム」補正を直接適用して引用文献の数値を除外することができ、このような補正がより柔軟であるとする見解がある。
しかし、筆者の知る限りでは、現在中国の審査実務において、「除くクレーム」補正は非常に厳しく審査される。どのような引用文献が拒絶理由に出るか予想できず、「除くクレーム」補正後の数値範囲で新規性や進歩性を強く主張できる自信がなければ、やはり最初から明細書やクレームに後日の補正に備えるための範囲・数値を多く記載したほうがよいと思われる。
5.結びに
数値範囲の補正、特に減縮補正は、出願人、弁理士、ひいては審査官に軽率に取り扱われ、補正による新規事項の追加を含むクレームのままで登録になることが少なくない。
特許登録後の訂正審判が制度化されていない中国では、新規事項の追加という不備が登録特許において時限爆弾のような存在となり、権利の安定性に大きな影響を与えるおそれがある。競合相手がこのような不備を発見して無効審判請求を提起すると、この特許が無効になる可能性が高くなる。
本件事案のみならず、第WX7372審決も、登録特許の請求項1における補正後の「11~30」という範囲の限界値11及び30が当初の出願書類に明確に記載されていないため、請求項1の発明は当初の記載の範囲を超えたものであり、特許法第33条に違反するとして特許を無効とする審決である。
出願人としては、拒絶理由通知に応答する際、できるだけ当初の出願書類に記載した数値で補正すべきである。「除くクレーム」補正という特別な補正手法を適用する場合、補正後の数値範囲を持つクレームが新規性、進歩性を有すること、または、除いた分の数値では本願発明が実施不可能になることを十分に主張する必要がある。
以上