中国の国際特許代理実務において、翻訳は外国の出願人の代理をする弁理士にとって必須の基礎技能の一つといえよう。そのうち、化学分野は独特の専門性を有するため、弁理士に対して技術上の理解が高く求められる。また、中国の弁理士にとって、日本語は外国語であり、弁理士の言語レベルや、専門知識、経験などの様々な要因により、日本語の特許出願書類を中国語に正確に翻訳することは思った以上に難しい。しかしながら、誤訳があると、拒絶理由通知の応答時、無効手続き及び権利行使において、特許出願人(又は特許権者)に多大な迷惑をかけるおそれがある。それゆえ、特許出願書類を正確に翻訳することは非常に重要である。
この点に鑑み、筆者は数年間にわたる特許代理及び翻訳作業のプラクティスに基づいて、化学分野の翻訳における問題点を纏め、以下のとおりいくつかの視点から、どのように化学特許分野の翻訳ミスを避けるかについて述べる。
1.化学分野における誤訳を起こす原因について
化学分野の特許出願は広い範囲に及び、化学特許弁理士は、化学特許出願におけるさまざまな技術分野の技術内容について全面的に理解し把握することは難しいので、技術内容の理解不足により翻訳ミスを起こし易い。日本語原文の発明が、文型からすればいくつかの中国語の意味を有しており、かつこれらの意味が中国語のセンテンスにおいていずれの意味にも取れる場合、その翻訳作業は大変苦労することになる。しかし、技術上の理解は一つしかないので、すこしの不注意でも誤訳を招く原因となる。
また、化学分野は他の分野と比べて、専門用語が比較的多く、化学物質の命名方法も複雑で、化合物ごとに日本語の化合物名を順序に沿って中国語に翻訳できるわけでもないので、化合物の構造を知ったうえでなければ正確に翻訳することができず、かつ中国語には慣用語が存在する物質もあるため、誤訳を起こし易い。したがって、化学専門用語を翻訳する場合、対応する中国語が正しい命名ルールに従っているか否か、また、一語多義の場合、どのように中国語に正確に翻訳するかなどについて、弁理士は十分に考慮しなければならない。
2.化学分野における誤訳に関する分析
以下にいくつかの視点から具体的に述べる。便宜を図るため、筆者は化学分野における誤訳を以下のタイプに分ける。
(1)一語多義
一語多義については、翻訳者が化学分野の翻訳作業を行う際に特に注意すべきである。1つの用語にいくつかの訳し方がある場合、どの訳でもよい場合もあるが、技術的観点からすれば、1つの訳し方しかない場合が多い。以下、例を挙げながら具体的に説明する。
まず、簡単な例を一つ挙げる。日本語の「接着性」という用語は、中国語に翻訳する場合、「粘接性」でもよく、「粘附性」でもよい。要するに、いずれの訳し方でもよい。このような状態は実質上発明に影響を及ぼさないので、翻訳者は前後の文に意味に合わせて任意に1つの用語を選べればよい。しかし、いくつかの訳し方から1つの正確な訳を選ばなければならない場合も多い。例えば、以下の例を見てみよう。
日本語の「接触酸化」という用語を、「
接触氧化」と直訳するのは正確ではなく、化学工業分野では、「
催化氧化」と翻訳すべきである。したがって、この実例から、翻訳作業において、関連する技術辞典を調べ、さらに出願人に確認すべきである。こうすることにより、類似する翻訳ミスを避けることができるであろう。
また、化学分野の翻訳作業において、一語多義で誤訳されやすい用語も多いので、以下のように慣用用語を纏めておくとよい。
①「酸素」は、「氧气」または「氧」と訳すことができる。
②「ベンジル」は、「苄基(benzyl、分子式C
6H
5CH
2—)」または「苯偶酰(benzil,分子式C
14H
10O
2)」と訳すことができる。
③「分散」は、「分散(dispersion)」または「色散(chromatic dispersion)」と訳すことができる。
これらの用語は、適切でない語義に翻訳された場合、技術上の誤解を招き、出願後の手続きに面倒な事態が生じるおそれがある。
(2)一文多義
もちろん、一語多義と同じように、1つの日本語のセンテンスに多種の意味がある場合がある。以下の例は一文多義の典型例であるといえよう。
「窒化アルミニウム焼結体よりなる基材と高融点金属部材
からなる積層体の製造方法」というセンテンスにおいて、「・・・からなる」という文型があり、この文型は化学特許の明細書によく見られ、その訳し方にはいくつかの種類がある。例えば、①「由・・・组成(形成)(・・・から構成される)」、②「包含(包括)・・・(・・・を含む)」などが挙げられる。①はクローズド式の訳し方であり、すなわち「・・・のみを含む」という意味である。②はオープン式の訳し方であり、すなわち「・・・を含むほか、他の物質(工程)なども含む」という意味である。したがって、翻訳者はどの訳し方が正しいかを技術的観点から判断すべきである。上の例の場合、技術的観点からすれば、積層体は「基材」と「高融点金属部材」のみを含むため、訳し方①が正しい。もし、積層体が「基材」と「高融点金属部材」以外、例えば「保護層」なども含む場合には、訳し方②が正しい。
したがって、これら一語(文)多義の場合、化学分野の翻訳者は、正確に訳すために、技術内容と組み合わせて翻訳すべきである。
(3)センテンスの意味が不明確
例1:日本語の原文:未加硫の該ゴム組成物のチューブをマイクロ波加硫装置内で、ゴム押出し装置から連続して押出す。
中国語の訳文:在微波硫化装置内,从橡胶挤出装置连续挤出未硫化的该橡胶组合物的管。
技術上の理解からすれば、正確な訳文は、「从橡胶挤出装置连续挤出未硫化的该橡胶组合物的管,所述未硫化的橡胶组合物管被输送到微波硫化装置内。」である。
このセンテンスの構造を正しく理解するには、「連続して押出す」という動作が「マイクロ波加硫装置内で」行われたかという点が鍵となる。文型からすれば、「マイクロ波加硫装置内で連続して押出す」と理解しがちであるが、実際には、この技術は、「まず、ゴム押出し装置から未加硫の該ゴム組成物のチューブを連続して押出す。前記未加硫の該ゴム組成物のチューブはマイクロ波加硫装置内へ搬送される。」ということである。
翻訳作業をする際、文面どおりに直訳するとこのセンテンスのロジック関係がおかしくなることに気付く。省略された「へ搬送される」という動詞を加えると、または上述の正確な中国語訳文に基づいて日本語を組み立てると、誤訳が生じる可能性が低くなる。この例からの示唆としては、日本語の意味があまり明確でない場合、誤訳を避けるために、明細書の内容や図面を組み合わせて理解すべきであり、もしそれでも十分理解できない場合、直ちに出願人と連絡すべきである。また、誤訳の比率を下げるため、日本語出願書類作成時に、特に特許請求の範囲を作成する際に、動詞、主語などを省略しないようにすべきである。
例2:結晶で構成される酸化タングステンを含む・・・
訳文:包含由结晶形成的氧化钨的・・・
ここで、訳者は日本語原文に忠実して訳しており、訳文は「酸化タングステンは結晶で構成される」という意味を表している。しかし、このように訳すと、「非結晶部を共存してはならない」という意味が間接に含まれていることになる。しかし、実際には、かかる酸化タングステンは「非結晶部を共存することができる」ものである。ここで、日本語作成者が、このセンテンスを「結晶構造を有する酸化タングステンを含む・・・」としていれば、中国語に翻訳する際に、技術上の相違を避けることができると思われる。
上の例からすれば、翻訳者にとって日本語は母国語ではないが、和文明細書を作成する人は、通常、日本語を母国語とする技術者であるので、両者が同一のセンテンスに対して異なる理解を有することは避けがたいことである。翻訳者は文法から翻訳の正確性を考えがちで、日本語を母国語とする技術者は文法をより柔軟に把握することができる。翻訳者は翻訳時に明細書全体の意味を理解しなければならず、また、作成者は明細書作成時に多義的になっているところがないか否かについて留意すべきである。
(4)句読点の欠如による誤訳
例3:「MgO層上に微細なAl
2O
3粒子を有するカバー層とすることができる。」
単なる日本語からすれば、この例は2つの訳し方がある。
訳文1:在MgO层上
可制成具有微细的Al
2O
3颗粒的覆盖层。
訳文2:
可制成在MgO层上具有微细的Al
2O
3颗粒的覆盖层。
この例において、「可制成」の訳文における位置によって、意味が異なる。それぞれの意味は下図1、2に示すとおりである。
図1(訳文1の意味)
図2(訳文2の意味)
明細書の説明によれば、図1のほうが正しい。したがって、この文を「MgO層上に、微細なAl
2O
3粒子を有するカバー層とすることができる。」と直せば、誤訳を防止することができる。
(5)片仮名で表された語彙が異なる英語の語彙に対応する場合、中国語訳文は全く異なる。
例えば、「グロウボックス」という語彙がある。その発音に対応するいくつかの英語があり、例えば、「grow box」、「glow box」などが挙げられる。どの語彙に訳すかについて自信がない場合、出願人に確認を求める必要がある。
このように、日本語の発音と英語の発音との特徴によって、日本語の片仮名の語彙はいくつかの英語の語彙を表していることが多い。この場合、弁理士はその正確な意味を疎かにするおそれがあり、このような明細書の内容からその意味を推定できない語彙に特に注意すべきである。混乱しやすい片仮名を使用する語彙については、日本の出願人がその対応する英語を括弧内に表示すれば、この種の翻訳ミスを避ける有効な方法であると考えられる。
(6)化合物の名称に注意すべきところ
例えば、化合物「トリフェニルホスホニウムクロリド化合物」を「氯化三苯基膦」と訳すのはあまり適切でないように思われる。それは、単なる訳文からすれば、塩素が「フェニル基」に結合するのか、それともリン原子に結合するのかがわからないからである。したがって、正確な訳は「三苯基氯化膦」であり、すなわち、塩素はリン原子に結合している。
また、化合物「エチレンカーボネート」について、構造からすれば、この化合物は「碳酸乙二酯」、または「碳酸亚乙酯」と訳すべきであり、「碳酸乙烯酯」と訳すべきではない。
以上が化学分野における翻訳の問題点に関する簡単な分析である。科学技術の進歩につれて、新しい用語も沢山出てくると思う。特許出願の翻訳には様々な問題があり、国際特許弁理士は常に問題意識を持って日常の業務にあたるべきである。筆者もこのような目的を持って本文を書いたので、読者のみなさまにとって少しでもお役に立てば幸いである。