I. 法的根拠
特許権者と一般公衆との利益のバランスをとるために、特許制度において、特許権者が常に自身にとって有利な主張をして利益を得ることを防止する「禁反言の法理」が設けられている。
中国特許法には、「禁反言の法理」に関する明確な規定がないが、侵害訴訟の審理において、裁判所は主に次の2つの司法解釈に基づいて判断する。
中国最高裁判所が2009年に公布した「特許権紛争事件の審理における法律適用の若干の問題に関する解釈」法釈〔2009〕21号(以下、「侵害解釈(一)」という。)第6条に、「特許出願人、特許権者が特許の権利化又は無効審判の手続きにおいて請求項、明細書の補正又は意見書により放棄した発明について、権利者が特許権侵害訴訟において特許権の権利範囲にそれが含まれていると主張する場合、裁判所はその主張を認めない」と定められている。この規定により、禁反言の法理が初めて中国の特許制度に導入された。
中国最高裁判所が2016年に公布した「特許権紛争事件の審理における法律適用の若干の問題に関する解釈(二)」(法釈〔2016〕1号)(以下、「侵害解釈(二)」という。)第13条には、「権利者が、特許の権利化・有効性確認の手続きにおいて請求の範囲、明細書及び図面に対する特許出願人、特許権者による限縮的な補正又は説明が明確に否定されたことを証明できた場合、裁判所はこの補正又は説明が発明の放棄につながらないと認定しなければならない」と定められている。この規定により、「放棄された発明」の意味がさらに明確になった。
また、北京市高等裁判所により発表された「特許侵害判定指南(2017)」第61~64条には、禁反言の法理についてそれぞれ細分化して規定されている。具体的には、第61条は「禁反言」の定義、第62条は権利範囲を限縮又は部分的に放棄する目的又は理由、第63条は、限縮的な補正又は意見書の採用・未採用に関する判断の基準、第64条は、禁反言の法理の適用や立証責任などを定めている。紙幅に限りがあるため、条文の詳細については本稿では省略する。
法的効力の観点からすれば、「侵害解釈(一)」、「侵害解釈(二)」は法令であり、一般的に適用されるが、「特許侵害判定指南」は地方裁判所の指導的意見であり、各地方裁判所の参考になる。
II. 最高裁判所の判例
法律条文の規定は面白味がなく抽象的であるので、「禁反言の法理」及びその適用をより確実に理解してもらうために、筆者はここ2年間の中国最高裁判所による「禁反言の法理」に関する判例の一部を以下のとおり紹介する。
1.(2022)最高法知民終905号
【中国最高裁の判示】
中外製薬株式会社は無効審判の手続きにおいて旧請求項2の一部の付加要件を請求項1に追加して請求項1の酸化防止剤をdl-α-トコフェロールに規定し、旧請求項2を削除するとともに、他の請求項の番号及び従属関係を変更した。この補正は実質上、旧請求項1の発明を放棄し、旧請求項2に記載の複数の選択肢から1つのみ残し、独立項の発明を、いずれかの酸化防止剤を使用可能なものから、dl-α-トコフェロールのみを使用するものへ変更したものである。また、本件特許の明細書には、dl-α-トコフェロール、物質Aを含む多くの酸化防止剤が挙げられている。当業者が本件特許の明細書の記載及び上記補正から分かるように、中外製薬株式会社は請求項を補正することにより、権利に残る特定の発明を明確に選択した。しかも、旧請求項2に記載された並列関係にある4種類の酸化防止剤から1つのみ選択したため、補正により物質Aという特定の酸化防止剤を用いる発明を放棄する意思が具体的で明確であるといえる。中外製薬株式会社は、補正時に酸化防止剤として物質Aを用いる発明を加えなかったことについて合理的な説明をしておらず、この補正が特許権の有効性判断とは無関係であることも主張していない。実際には、この補正はサポート要件違反の不備を解消するためのものであるとの主張はした。このように、中外製薬株式会社は、請求項の補正が他の酸化防止剤を用いる発明の放棄につながらないことを示す合理的な理由又は証拠を提示していないため、本件には禁反言の法理が適用され、酸化防止剤として物質Aを用いる発明は、本件特許の均等の範囲に属するとはいえない。
2.(2020)最高法知民終541号
【中国最高裁の判示】
特許権者は本件特許の請求項1を補正することにより、自動供給機がレンガ成形機の油圧装置と「同じ側」に位置することを規定した。本件特許の公開公報には、レンガ成形機の構造、パレタイジングロボット及び自動供給機の取付位置及び自動供給機の機能と役割は記載されていないが、特許権者は本件特許の権利化を図るために、中国特許庁からの拒絶理由通知に対する応答時に、自動供給機の取付位置を含む旧請求項3の構成を請求項1に追加する限縮的な補正を行った。補正後の請求項1において、自動供給機がレンガ成形機の油圧装置と「同じ側」に取り付けられていることが明確に規定されている。そのため、予見し得る「異なる側」に係る発明は放棄されたものと考えられる。禁反言の法理から、自動供給機がレンガ成形機の油圧装置と「異なる側」に位置する形態は、本件特許の権利範囲に属するということができず、「同じ側」の均等物として解釈することができない。
3.(2021)最高法知民終935号
【中国最高裁の判示】
本件特許の請求項には、ブラシの取付方向とその運転時の回転方向に関する規定はない。本件特許の第1回拒絶理由通知書への応答及び本件特許に対する無効審判において、碩能社(特許権者)は、係止ブロックと係止溝との係合により、本件特許のブラシの取付方向が掃除機の運転時のブラシの回転方向と同じであるとの主張はしたが、この主張は、係止ブロックと係止溝との係合接続関係に関する例示的な説明にすぎない。取付方向が回転方向と反対であると、係合状態ではないとか、本件特許で保護される発明ではないというような主張はしていない。また、本件特許のブラシの取付方向がその運転時の回転方向と同じであるとの碩能社の主張は無効審判において採用されなかった。つまり、碩能社はこの主張により、本件特許を維持したわけではない。碩能社が本件特許の権利化・有効性確認の手続きにおいて主張した上記内容は、本件特許の権利範囲への限縮にならない。
上記判例1、2は、禁反言違反の典型例である。すなわち、出願人又は特許権者がクレーム範囲を限縮又は部分的に放棄したのは、新規性又は進歩性欠如、必須要件欠如、サポート要件違反や実施可能要件違反など、権利化・有効性判断に関わる実質的不備を解消するためであり
[i]、その特許(出願)もこのような限縮的な補正又は意見書により権利化を達成したか、又は特許を維持できた。一方、上記判例3では、中国最高裁判所は、「権利化・有効性確認の手続きにおける特許権者の主張が認められず、かつ当該主張により特許が権利化され又は特許権の有効性を維持されることがない場合、当該主張は、特許権の権利範囲への限定にならない」ことを再確認した。また、判例1、3の判決内容は、「侵害解釈(二)」に記載の「明確に否定されたこと」についてどのように主張すべきかを考えるときの参考となる。すなわち、その場合、クレームを補正したのは、権利化の可否に関わる実質的不備を解消するためではないことを説明したり、請求項の限縮的な補正又は意見書と権利化又は特許の維持との間に因果関係がないことを証明したりすることが考えられる。また、判例2には、禁反言の法理の適用可否への「予見可能性」の影響にについての言及もあるが、紙幅に限りがあるため、ここで詳細な紹介を省略する。
III. コメント
禁反言の法理は、侵害訴訟における均等論の適用への制限となる。一方、権利者が侵害訴訟において行った主張はまた、無効審判においても禁反言の法理が適用されるのか。この点についての答えは肯定的である。中国最高裁判所により2020年に発表された「特許の権利化・有効性確認に係る行政事件の審理における法律適用の若干の問題に関する最高裁判所の規定(一)」第3条には、「裁判所は、特許の有効性確認に係る行政事件において請求項の用語を解釈するとき、特許侵害民事事件の確定した裁判で採用された特許権者の説明を参考にすることができる。」と規定されている。この規定は、特許権者が特許の無効審判及び侵害訴訟においてクレーム用語の意味を慎重かつ誠実に解釈し、各手続きにおいて一貫とした主張をするように促すものである。この規定により、特許侵害訴訟における特許権者の主張はある程度、逆効果があるため、特許権者が常に利益を得るような問題の発生はさらに防止される。
[ii]
以上より、「侵害解釈(一)」は実質上、特許権者又は出願人の主張や補正に「呪文」をかけるようなものである。「侵害解釈(二)」は、適用範囲を限定しているが、厳しい限定ではない。そのため、権利化段階にせよ、無効審判にせよ、権利範囲の限縮又は部分的放棄につながる主張をしたい場合、慎重に検討する必要がある。一方、侵害訴訟に巻き込まれた場合、被疑侵害者として、本件特許の審査経過、確定した審決又は民事判決書、口頭審理の議事録、電話インタビューの記録などを調べ、禁反言の法理を活かして「九死に一生を得る」可能性がある。